2018年1月8日月曜日

主観的要因と外界との差異を受容する



自我意識が作られる前からあると、

昨日コメントしました。

その心的エネルギーは、

日本人には聞きなれない「普遍的」「太古的」と、

補足しておこうと思います。

自然愛、人間愛、大義、合理化社会の範疇を越えた観察眼。

扱うスケールが大きい。

真っ新なキャンパスのようで、

実はすでに人間の本質をつくような眼を持っていたりする。



「条件づけ」とは、

とても狭い範疇のルールです。

合理化社会の中で作られた時代に通用する風習やジャッジメントと、

考えるとわかりやすいかもしれません。

どの国に生まれようとも、

その時代の「模範解答を求められる習慣」を、

私達は、何かしら突きつけられるていることになります。


ですからそこから逸脱し、

そのままの自分を肯定される場所が、

人間はどこかに必要なのだろうと思います。


誰か一人でも養育環境で、

その子の内向性を認めてあげられる人がいたら、

随分と違ったのではないかなと思うことがあります。


祖父母のいる家庭で、

この安全基地の役割を担ってくれていて、

問題なく育っているラッキーさんもいます。

それぐらい、受容されるって大事なことなのです。


「模範解答を求める習慣」が外界にあったとしても、

「主観的要因」から生まれた回答にも、

目を向け受容する習慣があったなら、

救われるんじゃないかと思うのです。


「模範解答がなぜ存在するのか」

その意味を説き、

団体行動や社会参加の場でのしきたりとして体得させ、

場をわきまえて匙を加減できるなら、

世界観は広がるだけじゃないですか。


その手間を省いてしまうことで、

人格形成が大きく道から逸れるようなことが起きるように、

思うのです。


内向性の主観的要因を通した意見を、

完全否定せず、

面白そうだなと思う目線を、

持つ度量が必要です。






写真 swambo






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