2017年9月21日木曜日

心の修行に神秘!?(質問回答編)

彼岸を前にして、朝晩が随分と涼しくなったなと思います。

朝起きても外は星空で、コオロギの音色と一緒に、

ゆっくり眺められるほど、日の出の時間も遅くなってます。

時は相も変わらず、私たちのまわりを流れ続けるものですね。


今日は、質問回答編です。

ちと長文です。(←暇な時に読んでください)

ヨガ好きの人から、神秘性について質問されます。

そこで、こんな感じで答えます。(←珍回答&暴露かもしれません)


「実践法に神秘性はありません(*^^)v」

すると、、、がっかりな顔を返されますの。

(壊すつもりはないンだけど、きっと夢壊したんだな、、と心が痛む)


まず「神秘」という言葉は、

言葉だけが独り歩きをして、世に出回っているように思えます。

そのため、誤解も多いのだろうなと思うのです。

ヨガ理論に携わる場合は、

まず宗教の概念を把握しておくこと。

また、

手順を間違えると、

迷信、妄信、狂信に至るということも、

やっぱり知っておくほうがいいと思ってます。

ついでに、

現在皆様が目にするヨガは、「ヨガビジネス化」しているものだと、

充分考慮しておいてほしいです。



実践法では、

普段使っている自分の心を分析しまくります(*^^)v

普段、意識できている性格と、

意識できていなかった無意識の統合に、手を掛けます。

それから、

感情と欲求行動の問題に、

都度細やかに向き合っていきます。

そこには、リアルな「人間の性分」が、

わさわさ出て来て、向き合わされるだけです。


太古の抽象的な表現を、

どのように解釈するかで、

理解の仕方は、違ってくるように思います。

実践法のことを、

「自分を手術台にのせて、くまなく手術をするようなものだ」と、

表現している著書を見かけたことがあります。

注釈本は、どれもこんな感じなのですよ(笑)

ちなみに、ここでいう「自分」とは、

「肉体」ではなくて「こころ」です。(←暴露します)


どうせやるなら、誤解も少ない方がイイ。

だから、ヨガ理論座学の講習では、

心理学的、生理学的、科学的などを

引っ張り込んで取り組みます。

ここまで来るのに、

私は偶然にも、心身に問題を抱える人たちと、

老若男女問わず仕事で交流していたので、

分析と解析が進められたのだと思います。

研究材料は、今も尽きることはありません。


性格をもっと大きな目線で捉えなおし、

個人を最大に活かすために、実践法を活用したら、

役に立つのではないかと考えています。




そこで今日は、

途中放棄や躓きがなぜ起きるのか!?

人は、なぜ向き合い方を誤るのか!?

に、着目してみます。

夢から覚めてもいい人は、読み進めてくださいね♡


それは、

人間の心には「幼児性万能感」が、関わっているからだと思えるのです。

幼児性万能感は、「妄想」とワンセットで働きます。

浅はかに物事を捉えて、

熟考の姿勢を端折ることに加担します。

端折った部分の空間を、

自分の想像で勝手に埋めてしまう。

あたかも理解したかのように、思考が働く。

ちょっと理解しがたい豊かな想像に留まって、

マインドコントロールが起きていく。


そして、これらが反省を嫌がる原因にもなっていく。

物事を熟知する際の、ブロック材料になってます。

自我の成長度合いを把握するための実践を、

何らかの理由をつけて避ける。

幼児性万能感が働いている意識行動は、

いつのときも、なんらかの現実逃避が起きています。

これも、苦悩を避けて通りたがる、

人間の性なのだろうと思うのです。


この仕事をしていて気づいたことですが、

思想傾倒にハマる傾向の人、

失調型パーソナリテイ傾向に向かう人には、共通するものがあります。

それは、繊細すぎるあまり、現実に苦悩を感じやすいこと。

イマジネーションの中に留まることで、

自分の傷つきやすさを守っています。

一種のシェルター替わりとなってます。


実践法は、これらを超越していきます。

「苦行」や「鍛錬」と語られるには、

それなりの理由があります。

徹底して自分の意識構造の問題に向き合っていく。

徹底して自分の意識構造を開拓していく。

その中で、今までとは違った物事の捉え方を身につけていきます。

それは、自分自身を丸裸にするようなものだと、表現しちゃうかな。

心は隠しようもなく、いつも観られ続けることになります。

見抜くのも自分(主体)なら、

見られるのも自分(客体)。

そこには甘さがない。(←あったら問題)

このタッグが、基本の「yuju(ユジュ・繋ぐ)」。

人によっては、

見たくないものを、突き付けられるように、感じるかもしれません。

苦痛に耐えかねて、越えられない。

そこで途中放棄や頓挫が起きてしまうのだろうと思います。


私はヨガ教室で、メンタルについて質問する生徒さんに、

「いつの時も、壁として立ちはだかるのは、自我です」

「それを看破してください」

「最後は、誰の手も借りられない、自我との闘いです」

と、言ってました。


実践法は、

越えがたいものを、越えていく楽しさを通して、

今までにはなかった力を、

人に中に、芽生えさせてくれるように思います。

その力を、

ある人は「真我」と名付けたり、

ある人は「微細な意識」と名付けたり、

ある人は「アートマン」と名付けたり、

ある人は「神意識」と名付けたり、

ある人は「集合的無意識」とユングの言葉を借りて、

注釈本に使用しているのだと思います。


伝えたいものは一緒ですが、

伝えたいものが形のないものなので、

言葉で表現しようとすると、バラバラになってしまう。

私達の生活は「感覚」によって立ち、考えるしかなく、

またそれに、頼るしかない。

そこに、誤解や矛盾が生じるのだと思います。


そんな力が誰の中にも開発すればあるのだよと、

宗教の概念の中に託して、

太古は、利用したのではないかと思うのです。

極シンプルに、

人格向上のために、役立てるなら、

何も、問題は無いように思います。







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