朝起きても外は星空で、コオロギの音色と一緒に、
ゆっくり眺められるほど、日の出の時間も遅くなってます。
時は相も変わらず、私たちのまわりを流れ続けるものですね。
今日は、質問回答編です。
ちと長文です。(←暇な時に読んでください)
ヨガ好きの人から、神秘性について質問されます。
そこで、こんな感じで答えます。(←珍回答&暴露かもしれません)
「実践法に神秘性はありません(*^^)v」
すると、、、がっかりな顔を返されますの。
(壊すつもりはないンだけど、きっと夢壊したんだな、、と心が痛む)
まず「神秘」という言葉は、
言葉だけが独り歩きをして、世に出回っているように思えます。
そのため、誤解も多いのだろうなと思うのです。
ヨガ理論に携わる場合は、
まず宗教の概念を把握しておくこと。
また、
手順を間違えると、
迷信、妄信、狂信に至るということも、
やっぱり知っておくほうがいいと思ってます。
ついでに、
現在皆様が目にするヨガは、「ヨガビジネス化」しているものだと、
充分考慮しておいてほしいです。
実践法では、
普段使っている自分の心を分析しまくります(*^^)v
普段、意識できている性格と、
意識できていなかった無意識の統合に、手を掛けます。
それから、
感情と欲求行動の問題に、
都度細やかに向き合っていきます。
そこには、リアルな「人間の性分」が、
わさわさ出て来て、向き合わされるだけです。
太古の抽象的な表現を、
どのように解釈するかで、
理解の仕方は、違ってくるように思います。
実践法のことを、
「自分を手術台にのせて、くまなく手術をするようなものだ」と、
表現している著書を見かけたことがあります。
注釈本は、どれもこんな感じなのですよ(笑)
ちなみに、ここでいう「自分」とは、
「肉体」ではなくて「こころ」です。(←暴露します)
どうせやるなら、誤解も少ない方がイイ。
だから、ヨガ理論座学の講習では、
心理学的、生理学的、科学的などを
引っ張り込んで取り組みます。
ここまで来るのに、
私は偶然にも、心身に問題を抱える人たちと、
老若男女問わず仕事で交流していたので、
分析と解析が進められたのだと思います。
研究材料は、今も尽きることはありません。
性格をもっと大きな目線で捉えなおし、
個人を最大に活かすために、実践法を活用したら、
役に立つのではないかと考えています。
そこで今日は、
途中放棄や躓きがなぜ起きるのか!?
人は、なぜ向き合い方を誤るのか!?
に、着目してみます。
夢から覚めてもいい人は、読み進めてくださいね♡
それは、
人間の心には「幼児性万能感」が、関わっているからだと思えるのです。
幼児性万能感は、「妄想」とワンセットで働きます。
浅はかに物事を捉えて、
熟考の姿勢を端折ることに加担します。
端折った部分の空間を、
自分の想像で勝手に埋めてしまう。
あたかも理解したかのように、思考が働く。
ちょっと理解しがたい豊かな想像に留まって、
マインドコントロールが起きていく。
そして、これらが反省を嫌がる原因にもなっていく。
物事を熟知する際の、ブロック材料になってます。
自我の成長度合いを把握するための実践を、
何らかの理由をつけて避ける。
幼児性万能感が働いている意識行動は、
いつのときも、なんらかの現実逃避が起きています。
これも、苦悩を避けて通りたがる、
人間の性なのだろうと思うのです。
この仕事をしていて気づいたことですが、
思想傾倒にハマる傾向の人、
失調型パーソナリテイ傾向に向かう人には、共通するものがあります。
それは、繊細すぎるあまり、現実に苦悩を感じやすいこと。
イマジネーションの中に留まることで、
自分の傷つきやすさを守っています。
一種のシェルター替わりとなってます。
実践法は、これらを超越していきます。
「苦行」や「鍛錬」と語られるには、
それなりの理由があります。
徹底して自分の意識構造の問題に向き合っていく。
徹底して自分の意識構造を開拓していく。
その中で、今までとは違った物事の捉え方を身につけていきます。
それは、自分自身を丸裸にするようなものだと、表現しちゃうかな。
心は隠しようもなく、いつも観られ続けることになります。
見抜くのも自分(主体)なら、
見られるのも自分(客体)。
そこには甘さがない。(←あったら問題)
このタッグが、基本の「yuju(ユジュ・繋ぐ)」。
人によっては、
見たくないものを、突き付けられるように、感じるかもしれません。
苦痛に耐えかねて、越えられない。
そこで途中放棄や頓挫が起きてしまうのだろうと思います。
私はヨガ教室で、メンタルについて質問する生徒さんに、
「いつの時も、壁として立ちはだかるのは、自我です」
「それを看破してください」
「最後は、誰の手も借りられない、自我との闘いです」
と、言ってました。
実践法は、
越えがたいものを、越えていく楽しさを通して、
今までにはなかった力を、
人に中に、芽生えさせてくれるように思います。
その力を、
ある人は「真我」と名付けたり、
ある人は「微細な意識」と名付けたり、
ある人は「アートマン」と名付けたり、
ある人は「神意識」と名付けたり、
ある人は「集合的無意識」とユングの言葉を借りて、
注釈本に使用しているのだと思います。
伝えたいものは一緒ですが、
伝えたいものが形のないものなので、
言葉で表現しようとすると、バラバラになってしまう。
私達の生活は「感覚」によって立ち、考えるしかなく、
またそれに、頼るしかない。
そこに、誤解や矛盾が生じるのだと思います。
そんな力が誰の中にも開発すればあるのだよと、
宗教の概念の中に託して、
太古は、利用したのではないかと思うのです。
極シンプルに、
人格向上のために、役立てるなら、
何も、問題は無いように思います。
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